赤い線で描かれた無数の建築スケッチ。設計で積み重ねられる検討の集積を表したドローイング

01 設計という過程

独立して以降、設計に取り組む中で、私自身が目指したい建築とは果たしてどういうものだろうかと、日々、自問自答を繰り返しています。

未だ見ぬ新しい建築、という大きな目標と

クライアントの要望を始めとした、プロジェクトの与件とのあいだには

建築家として目指したい建築に到達するまでの、極めて地道で専門的な価値観とともに積みあがっていく無数の過程があります。

最近特に多いのは、アイディアを大まかな形を絵にする時に、自分の引く線を見て「なんか思ってたのと違う」と感じる経験です。

少し前までは、こういう線もありかもしれない、と思いながら自分の引く線を他人に提案できていたように思います。振り返ってみるとそれは、社会と直接的に接続しながら建築の線と向き合っていたボスの存在が大きいです。「自分はこういう線が良いと思ったけど、ボスはこっちを選んだ理由は何なんだろうか」と、スタッフなりに想像する努力はしていたと思うのですが、今となってはスタッフには想像しきれない溝もあったように思います。その点、私は無意識に、建築の線の責任をボスに委ねていたようにも感じています。

もしかすると、この経験こそが、建築家が社会に接続する、ということなのかもしれません。設計という行為は、与件から建築が作り上げられていく過程で、自分自身を納得させられる判断を無数に積み上げていく必要があります。例えば、ある部屋の外形を語る線は、その環境全体としてのプロポーションに寄与しながらも、その部屋単体としての空間の質や場の作られ方、歴史的な価値、数学的な意味を生み出してしまいます。物理的なやり取りを超えた想像力が求められる、そんな緊張感のある無数の過程の先に、建築は成立していくものだと、私は考えています。

それは、すべてを徹底的に決める、という話ではありません。時には、自分でも納得しきれない線の状態で終わらせてみる、ということも設計という過程で許されて良いものだと考えています。

02 私のやり方

独立して2か月が経ち、私も、ようやくそうした線の緊張感を肌に感じ取れるようになってきました。それと同時に、無数の過程の中に私だけのやり方があることも感じ取り始めています。

学生の頃から変わっていないやり方ではあるのですが、プロジェクトに関するありとあらゆる与件や参照を同列に並べ、空間化し、恣意性をもって重ね合わせていくことを試します。この過程で、自分自身の感性が掛け合わされ、具体的な建築の部分が浮かび上がってくる感覚があります。部分と部分は、時に統合され、時に捨象され、そして時に衝突したままの状態で取り残されます。

学生のころに國清が作成した作品

すべての与件や参照元が生かされないこともあります。切り捨てることもまた設計であるからです。重ね合わされていく与件や参照は、文字だったり写真だったり、何なら見えないままの何かだったり、存在しないものだったりもします。

03 分からないことを分からないままにしておく

リヒテンシュタインの石の壁とベンチ

いまから8年前、リヒテンシュタインに留学していた時にいつも見ていた風景の写真です。当時の私は、石の壁の手前に置かれた椅子に魅せられて、この写真を撮ったことを覚えています。写真の構図からも分かるように、目の前の椅子の魅力を引き立てていたのは、はるか遠くの背景に見えるアルプス山脈です。椅子という主役が、アルプス山脈という脇役によって引き立てられていることを、アルプス山脈は知りません。

私にとって、留学という体験そのものが、この写真の関係に非常に近しいものでした。日本という遠く離れた場所で起きている事柄が、他人の伝聞のみを通じて、日々私に届けられます。それは本当かどうか分からない話として、リヒテンシュタインにいた私の日常に影響を及ぼし続けます。そして、日本から影響を及ぼす人たちも、日本から遠く離れた土地で進み続ける私の日常を知らないわけです。

私たち人間は、現代、物理的には重なりえない事柄を、自分の日常と重ね合わせて生きていくことができるようになってきています。お互いに、最後まで把握しきれない事柄や説明のつかない現象を、納得しきれないままに共存させることができてきています。

アテネのアクロポリスの丘からの風景
雪が積もるヘルシンキの墓

1枚目の写真は、7年前にアテネのアクロポリスの丘から撮ったものです。自分がいま立っている丘と遠くの街並みが混然一体となっていて、その境界線がどこにあるかは体験する人間に委ねられています。

もう1枚の写真は、同じ頃にヘルシンキの墓で撮ったものです。一見不規則に置かれたランタンが、雪の下のすぐそばに墓石があることを教えてくれています。私たちは、雪を掘り起こさなくても、そこに墓石があることを想像しながら祈ることができます。

私が魅力的に感じた2つの体験は、その本質を‘‘本当かどうか分からないこと‘‘によって支えられています。

04 micro Re:construction

改めて、設計の過程において、ありとあらゆる与件を同列に並べて空間化するとはどういうことか。それは、ある特定の側面だけの合理に基づかない設計の向き合い方であると、私は考えています。すべての可能性を空間化しておくことで、いつか誰かのなかで‘‘本当かどうか分からないこと‘‘として重ね合わせられるような、刹那的な体験の可能性を残すことができます。

設計とは、誰かが始めた物語に途中から参加をして、それを構造化し、空間として具体化していくことで物語が加速するような、一連の所作であると言えます。設計という活動を通して見つけられた何かと何かを重なり合わせていくことで、形や素材、大きさ、接合のさせ方を納得していきます。

そうした一連の所作を、私はmicro Re:constructionと名付けています。

この記事を書いた人 / AUTHOR

國清 尚之 NAOYUKI KUNIKIYO

一級建築士 | 株式会社國清尚之建築設計事務所 代表

1993年、山口県宇部市生まれ。九州大学工学部建築学科卒業。リヒテンシュタイン大学に留学した後、東京藝術大学大学院美術研究科を修了。修士の研究テーマは「妖怪建築」で、都市で起きる不思議な現象を、妖怪を通じて建築空間に翻訳し直す試み。その後、藤本壮介建築設計事務所で7年間の実務を経験したのち、2026年に國清尚之建築設計事務所を設立。

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